離陸前の飛行機・巣立ち前の若鳥

投稿者: | 2013年8月4日

学生宛のメールですが、ここにも転載します。その2。

さてさて、当ゼミの方針である、「放牧型」「自主性尊重」「自己管理能力が命」というやり方については、
いろいろと欠点もあり、批判も多いです。

実は難易度がかなり高い、という説。

とくに熱血パッション系の人々から、そんなのはただの「怠慢」であり、「教育の放棄」だ、という、キビシイご意見もあります。教育とは強制であり、とことん自分色に染め上げることだ、と。強制して染め上げるだけの価値を持たねばならない、染め上げて相手の人生を変えてしまうほどコミットする、その全責任を負わねばならない、と。その自信のないものは、教育に携わる資格がない。と。強制されることで幸福になる人もいるのだ、と。おそらく、これらは真実でしょう。

でも私は、どうしてもそういうやり方はできない。教育に携わる資格がないのかもしれない。ですが、この世に存在する以上、「できない」という状態そのものにも、なにか「使命」が与えられているのではないか、と、最近は開き直るようになってきました。困ったものであります(^^:)。

私は、よく飛行機に乗ります。飛行機は出発のとき、そろりそろりとエプロンを出て、タクシーウェイをごろごろ走り、滑走路の端にたどり着き向きを整える。さあいよいよ離陸。この、離陸直前、エンジンをふかして走り出す、このひとときが、大学生なのではないか、と。社会に出る直前の教育段階なのではないかと。飛行機は離陸時にエンジンを100%ふかし、持てる能力のすべてを使って大空に飛び立ちます。飛行機と人間は違うので例えきれないのですが、私たち人間も、社会に飛び立つとき、それまでに身につけたエンジンや翼や車輪を使って、自分の力で走り出し、飛び上がらなければならない。離陸前にはいろいろと、エンジニアの人がホースやコードや車をつなげて、燃料をいれたり荷物を積んだり牽引したり、いろいろお世話をするのですが、いざ離陸、となると、それらのホースやコードや車はすべて取り外し、よし、自分の力で行ってこい!となるのです。エンジニアなど地上の人々が、手を振って見送ってくれますが、あの人たちが、実は私たち、学校の教員なのではないか、と、離陸のたびに思います。どんなに心配でも、手塩にかけてかわいくても、走り出したら、もうただ見守るしかない。助けてあげることはできないのです。とにかく、自分の力で飛ばねばならない。(まあ実際の飛行機はいろいろと無線設備があってサポートされていますがね) そして、首尾よく離陸したら、だんだん姿が小さくなり、ついには見えなくなる。消え去ってしまったら、ああよかったよかった、この先もがんばれ、となる。大学の教員は、教え子が自分の元を自力で去って行けるようにすることが目標だ、といえます。

おそらく「強制」は、「飛行機を作る」段階なのではないかと思います。見本の飛行機や設計図があって「オレのようになれ!」と。小学校あたりは、工場の中でエンジンを取り付けたり、翼の動翼をパタパタしたり、飛行機を作っていく。そのときにうっかり自主性を発揮して、勝手にエンジンを作動させてあばれたりしたら、事故ります。

一方大学生は、もう離陸直前。もう飛行機はおおかたできあがっていなければならない。実際の飛行機は未完のまま飛び立つと確実に事故になりますが、ここが人間と飛行機の違うところ。むしろ、巣立ち前の若鳥に似ているかもしれない。ちょっとずつ、自分で飛ぶ練習をして、距離を伸ばしていく。もう私は自分で飛べます!好きにさせてください!という学生と、いやそんなんで飛んだらケガをする。まだアレを勉強しなさい、これを練習しなさい、と強制する大学教員。そのせめぎあい、かもしれない。

ふりかえって当ゼミは、ちょっとぐらい飛行機が未完でも、若鳥が非力でも、自分で飛んでみさせる、ということかもしれません。いや、いつでも飛べるようにした上で、放っておく(^^;)。浮き上がれるだけ既にできあがっていなければならない、ということと、落っこちてケガをしても負けない、ということ、そして自分で飛んでみる度胸があるものだけトライする、ということで、実は「難易度が高い」。